画像:©いよ観ネット 道後温泉
By 石川 理夫 ISHIKAWA Michio
「日本三古湯」の一つとされる由緒ある温泉地(現在の道後温泉)。
文献上初の日本人と温泉の出会いが、天皇(大王)の皇太子の禁断の恋の果ての流刑先として登場。
ヨーロッパでは温泉の泉源(湯元)からはるか青銅器時代にさかのぼる奉納物が多く出土している。フランスのブルボン王朝発祥の地域に湧くブルボン・ラルシャンボーやラ・ブルブールといった温泉地名は古代ケルト人の温泉神ボルヴォに由来する注。奉納物は人々の湧泉・温泉信仰と利用の証だった。
ヒポクラテス病院(フランス ソージョン市) ダックス市の温泉の噴き出し©Dax市
文献のほうでは、「医学の祖」と称えられる古代ギリシアのヒポクラテスが紀元前5世紀に温泉について記している。日本も温泉に恵まれているので、温泉との出会いは早かったと想像されるが、残念ながらこうした物証や文献に乏しい。
©いよ観ネット 道後温泉本館又新殿
日本で初めて文献に温泉が登場するのは、現存する日本最古の書物『古事記』で、奈良時代初めの712年に編さんされた。神話時代から飛鳥時代の7世紀前半までを物語風に記述したオフィシャルな歴史書である。その中で5世紀半ばの「允恭天皇」時代の話として、四国の伊予(いよ)国(愛媛県)にある「伊余湯」が出てくる。現在の道後温泉で、「日本三古湯」の一つとされる由緒ある温泉地だ。
興味深いのは、文献上初の日本人と温泉の出会いが、温泉の恵みへの感謝や温泉利用の楽しみを語るものではなかったこと。道後温泉は天皇(大王)の皇太子の禁断の恋の果ての流刑先として登場するのである。
©いよ 観ネット 道後温泉
『古事記』が物語る話はこうだ。皇太子はだれしも見惚れるほどの美男子で、その妹の姫も「艶妙(えんびょう)なり」と美しかった。同母兄妹の二人は禁断の恋におちる。それが世に知られて人心は離れ、次期大王の座をねらう弟に追い落とされた。しかし皇太子ゆえに殺されずに「伊余湯」に流されたという。引き裂かれた妹の姫が皇太子に恋い焦がれて詠んだという歌が、奈良時代の8世紀後半に完成した『万葉集』に収められている。
「あなたが行ってしまってから 久しく日が経ちました 迎えに行きます もう待ってはいられません」
©いよ観ネット 見奈良温泉露天風呂
おそらく姫は「伊余湯」で皇太子と再会できただろう。二人がせめて温泉で癒されることがあったと思いたい。どれほどの日々を二人が「伊余湯」で過ごせたのかわからない。『古事記』は最後に「共に自ら死にたまいき」と記すのみである。
『古事記』の8年後に朝廷が編さんした歴史書『日本書紀』に載るこの話は、時期も結末も少し異なる。皇太子は逃げ込んだ大臣の家で自害し、流されたのは妹の姫のほうで、単に「伊予に流す」とだけ記し、「伊余湯」への言及はない。
「伊余湯」の地域は古代から「温泉郡」と言われたほど温泉で知られ、貴人らが温泉利用するための施設が備わっていたと思われる。だから王族の流刑地ともなった。日本人と温泉の出会いはさまざまな様相を帯びていると言えよう。
▽参考の温泉DATA(道後温泉)
泉質:アルカリ性単純温泉。泉温:平均47℃
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